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本などを紹介しています

『自然保護を問いなおす』 鬼頭秀一 つながりと環境

さて、前回は環境倫理学者、鬼頭秀一さんの論文を紹介し、環境運動のダイナミズムについて示しました。環境運動は人間同士、あるいは人間と環境の相互作用のなかで動きながら進んでいくというイメージが得られたかと思います。今回は同じく鬼頭さんの本から西洋的普遍主義から、少しやわらかな関係主義という流れで書いてみたいと思います。

二分法からの脱却

 自然保護は、人間と自然の二項対立で、人間中心主義からの脱却というテーマで様々に議論がなされてきました。アメリカを中心とした欧米の環境思想でどのような議論がなされてきたのかについては鬼頭さんの『自然保護を問いなおす』にコンパクトにまとめられています。その部分だけとっても名著といえる内容だと思います。まとめると、自然保護の思想は、人間中心主義から人間非中心主義という転換となるかと思います。しかし、西洋の自然の価値の捉え方は、原生自然に普遍的な価値があるという、ある意味では精神主義的な部分が含まれおり、人間と自然の関わり方によらず、手付かずの自然に普遍的な意味があるという形になります。

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 西洋はどこまでいっても二元論的な「分ける思想」から離れられません。それ自体が必ずしも悪いとは言えないと思いますが、もっと全体をざっくりと見るということがあっても良いように思います。東洋的ということは安易に使うのはためらわれますが、主観と客観が曖昧で、私が言っているのか、それまでの社会的蓄積が自分に言わせているのかという感覚があり、環境と向かい合うときはこのような感覚が大事になるようにも思えてきます。

社会的リンク論

 鬼頭さんの視点は色々広がりがありますが、ここでは、鬼頭さんが着目した社会的リンクという言葉について触れてみます。先ほど触れた"西洋的な二元論から脱却できるかもしれない東洋的曖昧さ"は私の表現ですが、鬼頭さんはそれを「かかわりの全体性」という様に表現されています。これは自然と人間の関係がお互いに働きかける様な全体性を持っているという見方だと思います。ではその関係性、自然と人間を結んでいるもの、あるいは失っていて取り戻すべきものはなにかというと、社会的・経済的リンク、文化的・宗教的リンクのネットワークの総体であると言っています。倫理という面から行くと、守らなければいけないものが普遍的に決まっているのではなくて、我々の生活において、社会的、経済的、文化的に自然が特別な意味を持つがゆえに、当然それを守るというようなかかわりを作っていく。そういう倫理もあるだろうということでしょう。  鬼頭さんの言葉に「遊び仕事」というものがあります。なくなっても困らないけれど続いている習慣のようなもので、山菜採りやちょっとした漁などが挙げられています。このようなものは遊戯的な側面が強いらしいですが、確実に伝承され、生活の中で自然と触れることで、「その場所でその遊びをした自分」というのは否定できない自分自身になるといってもいいかもしれません。まさに主客未分離な感じですね。

関係性と実践的コミュニティ

 『自然保護を問いなおす』では文化あるいは伝統というのは決して静的なものではないという視点に立っています。伝統は土地土地の風土の中で変化を受け入れ続けることで獲得してきた関係性であり、であるがゆえに人々の感受性まで入り込み、伝統的な振る舞いを行うことによって、アイデンティティを獲得する。

 ジーン・レイブ、エティエンヌ・ウェンガーは『状況に埋め込まれた学習』の中で実践共同体という言葉を使っています。社会的リンクという観点で考えると、文化や風土、伝統は認知的なものと考えられますが、レイブ、ウェンガーはそれを実践と結びつけます。その実践は学習過程であり、アイデンティティ形成過程であり、社会的実践、伝統の創造であると言えるように思います。

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次回はこの『状況に埋め込まれた学習』を私なりに掘り下げてみたいと思います。