Vignette from the Book

本などを紹介しています

読書および探求の再開

当初の考えの確認

ブログを書かなくなってから随分たちました。予定通り会社をやめてしまったのですが、その後の予定はあまりないので、色々模索しつつ読書だけはコンスタントにしたいと思っています。次の活動に繋がる内容についてはまた別のページで描こうと思いますが、ある程度雑多な内容についてはここで書いていこうと思います。

これまでの文章を、自分で言うのは馬鹿げていると感じますが、なかなか面白いところがあるなと思いました。多分、気合いを入れて書いたのだと思います。だから長続きしない。

驚くべきことに初めてブログを書いたのは2年前なので、様々な違いは生まれていますが、根本的な考え方はあまり変わってないことに安心感を覚えます。

振り返り

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その時挙げた「仮説」を取り上げてみましょう。

  1. 製造業はグローバル競争の中で戦略性が問われるが、アプローチは個別多様にならざを得ず、現在の形骸化した状況では闘うのは厳しい。

  2. 現先進国、特に都市部で起こっているのは良い場合も、悪い場合もアイデンティティの混乱に欲求の変化かも

  3. 地域については問題と問題意識が大きいことから、変化は確実に生まれる。小さい範囲で人々が安心できるアイデンティティを確立できるような方法論を用意したほうがいい。
  4. いずれにせよ、多様に変化するということから目をそむけることはできなくなる。そうなると、情報の発信・受容の動きをよくしなければならないし、様々な人が参加する、短期的なプロジェクトをまとめたり、ディレクションすることが結構重要になるかも。
  5. マスに働きかけるというアプローチはWebではネガティブにもボジティブにもどちらにも大きく触れるが、ある程度範囲を絞れば、それほどネガティブにはふれない。
  6. 実際にビジネスを始めるとすれば、ほとんど場合リスクを考えれば、ある程度規模を絞って、コミュニケーションを密にするほうが良い。特に地域のビジネスはそれは前提。だとすれば、ネットはどんどん使えばいいし、もっとアイディアが出ていい。
  7. 地域の問題は、ビジネスモデルはオープンな方がいいかもしれない。地域内での競争は必要だが、地域間の競争は結構キツイ。負けたから、その地域は終わりという論理が広まるのは危うい

これについてはほとんど変わってないといっても良いです。1については結局、グローバルで争うような製造業からは完全に離脱する思いで退職をした。これはグローバルな方向性に可能性がないということではありません。大企業がグローバルに戦略を立てると言うのは自然だと思いますが、日本製造業の多くは、人材、技術面で構造的な問題を抱えているため、グローバルで競争する場合に、非常に辛い戦いしかできないというのが私の見立てです。そして、この状況に対して、多くの構造的な問題がそうであるように、個人の力などでどうにかなる問題ではないです。相互依存体制が弱いものであれば多少の揺らぎがあれば、それが変化の起点になるのでしょうが、私から見ると、現状の不合理なシステムへの信仰に近い依存は、それを余地のないほど強固なものであるように思います。

なぜ地域か

個人的には地域的なものから付加価値をつけていかない限り、大企業中心の生産と、その生産のための再生産労働となってしまうと思っています。大企業中心の生産がうまくいかなければ、再生産部分、例えば、保育・教育・介護などは基本的にはないがしろにされる可能性があります(さすがにその部分価値観は変わってきているように思えますが)。簡単に言うと、保育・教育・介護は大企業がものを作るために存在していると言わんばかりの社会体制は、どんどん人を幸せにしなくなるでしょう。

我々の現在の社会常識のイメージは、高度成長期的生産構造、つまり人口増と物質的な生産性の向上によって、国家的な徴税がうまくいき、再分配も細かい部分を除けばうまくいっていたという時代のものです。細かい説明は省きますが、生産性向上が見込めなくなった場合、単純に税収が下がり、再分配は難しくなります。これは単純な話ですね。大きな範囲で考えると不安がどんどん増していきます。まだまだ頑張れるという意見は正しいと思いますが、大規模組織レベルでの生産性向上はこれまでずっとやってきました。今でも頑張ろうとはしていますがそれには限界があるし、日本の場合、人手不足ということもあり、余計なものはすぐ削減みたいに、副作用がある方向でしか手が打てないという側面があります。

私が地域に注目するのは、ある種の信じるものが失われた状態(社会学でいうアノミー状態)を基本的には地域的なアイデンティティを確立するしかないと感じるからです。アイデンティティというと何か違う気もしますが、要するに”私はここで生きている”という感覚です。産業がポスト製造業化するのだとすれば、この観点は非常に重要です。

「私らしさ」を追求するという捉え方になり、おそらく一般的な企業はこのような形で個別化による付加価値を狙うのかもしれませんが、成功するのはごく一部でしょう。基本的には生産性の向上が伸び悩めば、全体は貧しくなるという現象は避けられないはずです。その場合に、マスカルチャーが提示する私らしさというただの消費行動に依存してしまうのは非常に危険な行為だと言わざるを得ません。

極端な言い方をすれば、豊かな消費生活をとるか、地域の関係性の豊かさをとるかと言う話になりますが、現実はそんな切り分けにはならないかもしれません。しかし、土地に根ざした安心感を確保しておかないと、我々は、どんどん自己が追い詰められていくような世界に入っていくのではないかと思います。これについてはジグムント・バウマンの書籍などを取り上げながら論じてみたいですね。

そんなことを考えながら地域でフラフラしているわけですが、今の所、何に繋がるかはわかりません。ただしそのようは大枠で地域で考えるという人はそれなりの数いほうがいいと思うので、エンジニア崩れではありますが、時間の許す分、なんちゃって思想家としての努力をしたいと思います。

不確実性とつながり

今度はつながるということをテーマに書いてみたいと思います。今回の本はマーク・ブキャナン『複雑な世界、単純な法則』です。

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スモールワールド

「スモールワールド現象」、「6次の隔たり」という言葉を聞いたことはあるでしょうか?簡単にいうと、6人の知人を介せば、我々は全世界の人間とつながることができるということ。心理学者のスタンリー・ミルグラムが実験によって示したこの現象は、のちに数学者のダンカン・ワッツとスティーブン・ストロガッツによって、科学的研究対象の一部になりました。このような領域は非線形領域の研究内容の一部であり、複雑性の科学、ネットワーク科学と呼ばれていたりします。重要なのは、そのような学問の登場により、何の秩序がないところに実は秩序があるということが見えてきたということであり、この本の主題です。

不確実性というテーマ

不確実性というのは、よく耳にするが何を表しているのかよくわからないという感覚がある言葉の一つかと思います。 不確実性を考える上でヒントになるかもしれないのが、本書で紹介されたいた、古生物学者のスティーブン・ジェイ・グールドの話です。『ワンダフル・ライフ』でが歴史の核心にあるのは偶発性だということを強調しています。グールドは進化を論じる生物学が決定論的であることに違和感を感じて、偶然性というのを強調した言えるのではないかと思います。グールドは生物の進化がランダムに起こっていると言っているのではありません。偶然性というのが秩序を形成する上で重要であり、偶発性があるからこそ、現在の秩序が生まれているのではないかという想定ができるということです。そのように考えると、不確実性は秩序を生むためには、避けて通れない事象です。この本ではそのような偶発性と秩序の結びつきを示す事例が幾つも示されています。

弱い紐帯の強さ

特に興味をそそられるのは社会的なつながりに関する部分です。社会学者のマーク・グラノヴェッターはコミュニティの中に見られる弱いつながりを強調した社会学者です。グラノヴェッターの主張は弱いつながりは、強いつながりで形成されたコミュニティ同士の橋渡しをする役割があるということです。強いつながりだけを持つコミュニティは確かな規則を持って運営されている一方で、自律性を欠く場合があります。そのような状態に陥らないようにするためにも弱いつながりを持っておくということは大事だと言えますね。このような意味で不確実性と秩序というのを捉えることもできるのです。

理解におけるつながり

前回のテーマに絡めて、理解という意味でのつながりについて、考えてみます。 前回の記事では、理解とは一方的な伝達というよりは「創発」なのではないか、ということを書きました。これはある意味では、複雑さの中の秩序なのではないかなと思うんです。 これはちょっと、スモールワールドっぽいですね。複雑な内容を伝えようとする時、必ず伝えたい人に1対1でアクセスするというか、その人の知のネットワークにつながることによって、自分のネットワーク絡め、二つのネットワークを一つにしていくという過程が起こっているのではないかと思うんです。 ここから考えると、自分の知のネットワークの「弱さ」の部分が外の知と繋がって、創発を起こしている。そう考えると、自分の中でそのようなネットワークのハブと成っているのはどういうヤツなんだろうかと考えると面白いです。

理解について

昨日に続いて、伝えることについて書きたいと思います。

私がぶつかった問題は、自分の持っている情報って伝わないな、ということ。 どうやったら伝わるようになるのかはおいといて、伝わらないということ、伝えることってどういうことだろう、ということを 巡ってみたいと思います。

『理解の秘密』

今日はリチャード・ワーマンという人の『理解の秘密』という本から感じたことを書いてみます。

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ワーマンはデザイナーのようですが、著作は情報に関することが多く、かの有名なTED Conferenceの創始者の一人です。それだけで興味深いですね。 ワーマンについては松岡正剛さんが同署について千夜一冊というページで書いているのでぜひ見ていただきたいです。、私が『理解の秘密』を購入したのはこの文章が素敵だったからです。

松岡さんの文章の中では、以下の部分がとても気になりました。

ワーマンは、仕事こそが表現であり芸術であり、生活であって技能であると考えている。かつ、どんな仕事の本質も「情報の転移」でできていると考えている。情報の転移によって何がおこるかといえば、そこで初めて「理解」のシャッフルがおこる。だからワーマンは、すべての仕事は「アンダースタンディング・ビジネス」となるべきだと口癖のように言っていた。(千夜千冊 1296夜リチャード・ワーマン『理解の秘密』)

我々は理解というのがある一定の情報がこちらからあちらへ、一方的に流れるというより、情報の転移によって「理解」のシャッフルが起こるというように捉えています。これは伝達による内容理解が、「生成」的な意味を帯びていると言っていい良いのではないでしょうか。TEDの創始者であるワーマンがこのようなことを主張してたのは面白いことですね。逆にいうと、情報の転移による理解のシャッフルが起こっていない、お互いがうまく反応できていないというのが、伝わらないという状況なのかもしれません。

『正しい方法』に振り回されない

この本で私が気になったメッセージを2つ紹介します。一つは「正しい方法」に振り回されないこと。いわゆるハウツー本の危うさがここにあるかと思います。様々な不安から、こうやれば「正解」ということを探してしまうのは、よくあることです。正解がある問題はもちろんありますが、コミュニケーションの場合、それはちょっと危険な考え方です。なぜなら、伝達においては様々レベル、ニーズ、パーソナリティに対応するために、いろいろな種類がなければならないからです。複雑な機械の操作を教える時に、大人のエンジニアと子供に教える時の、メッセージは違うはずです。個人的なエンジニア経験から行って、パーソナリティに応じて説明の仕方を変えるということは案外重要なスキルなのではないかと思います。これについては他の専門的な仕事をしている人から同意してもらえたりすると面白いですね。

簡単ではなく、明確にすること

もう一つは大事なのは簡単ではなく、明確にすることだ、ということ。わかりやすい話が受けるのはよくわかるけれども、実際に求められているのは複雑な状況の中でクリアな問題意識を共有して、創造的な解決策を提供することです。だから、もし特定の誰かに伝えたいことがあるのであれば、その人のことを考えながら、色々なやり方を模索しておくべきです。明確であることが、メッセージが伝わること、それが行動につながることに必要なことですが、簡単であることだけがそれを達成するということはないという子でしょう。難しいのは不特定多数の人に何かを届ける場合、もしかしたらこれについては、できるだけ簡単にして、伝えることを絞るということになるのかもなー、というあきらめもあります。

結論と「書くということ」

結局のところ、明確にこうすれば伝わるという方法はないと考えるべきだという結論。不特定多数に届ける文章としてはアウトかもしれません。でも私的にはそういう、わかりにくさというのに「愛おしさ」を持ってもらいたいのです。それなのに、わからないことにイライラしてしまった自分に反省したというのが、前回の話でもあります。 そう考えると不特定多数に発信するブログというのは難しい。 このブログは半分自分自身に向けた、訓練なようなところがあります。でもできれば何らかのフィードバックがあって、こういう人が読んでるんだったら、こういうことを書けば役に立つ、喜ばれるかもしれないなというところまで持って行きたいなという気持ちもあったりしますが。そいうことも期待しつつ、続けていくつもりです。

伝わらないことへの反省と気づき

かなり久しぶりのブログになります。今日からは定期的に書いていこうと思います。

この一年弱何をやったか

ブログを書かなくなったのと同じくらいの時期から、とある市民活動系の運動に参加していました。知り合いで介護関連で何かやりたいという人がいて、そのお手伝いだったのですが、一区切りつきそうです。活動の内容については気が向けば書きますが、今日はその活動の中で得られた気づきを書こうと思います。

対話の中で反省したこと

これまでの記事でわかるはずでしょうが、私は結構複雑な思考を好む方なんですね。それは思考を複雑にすることによって注意力を高めているというか、その方が集中力が高まるというか、好奇心がドライブされるというか、読書や調査する場合はその方がスピードがあるという一種のノウハウです。 それで介護に関する知識も元から少しあったんですが、その後も色々情報収集していくと、この業界問題というか課題だらけであることがわかってきました。それで、色々調べすぎてしまって、一緒に活動している人と知識に差ができてしまし、問題の捉え方がずれてくるようなところまで行ってしまいました。 そんな状態で、色々話していくと、比較的良い人ばっかりなこともあって、私の話をよく聞いてくれるようなのですが、どうも、頭の中に入っていてない。こういう感覚、私たまにあります。心当たりがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

これ、私完全に自分自身が悪いというか、自分のダメさというの認識が足りなかったなということを実感しました。具体的なところを書いてないので、何が気づきなのかわからないよという感じかもしれませんね。そこは省略させてもらいますが、感じたことは、伝えるということは、「伝える側」と、「受け取る側」だけでなく、その内容のサイズや、前提となる文脈を含んでいるし、理解というのはやり取りの中で生まれるから、一方的にこういう風にやったら伝わるよっていう話ではない、ということです。

ワークショップへの興味

反省点の他に、良い経験もありました。ワークショップ的なイベントを開いたのですが、何度かファシリテーションの経験があったものですから、ファシリテーター役を任されたんですけれど、これが面白い上にとても評判が良かったのです。もともとワークショップには興味があって、ファシリテーションなどにチャレンジしてたんですが、今回の体験は比較的規模が大きくて(それでも20人そこらですが)未知の体験だったのですが、結構自分に向いてるかもしれないなということを感じることができました。

行動することによるフィードバック

私の強みは、その場で即興的に、そう来るならこう返す、というのフィードバックをかけることができることだと思います。そこで少し抽象度をあげてやると、ある「見方」が立ち上がってくる。今もまさにその時の体験からフィードバックをかけようとしているように、体験すること、行動することによって得られる情報ってやっぱりすごいなと思いました。そして自分に足りなかったのはまさにそういった経験だなと感じました。

次のステージへ

私の中の暗黙的な方法の強みと弱みが見えてきたのは、利益が生まれない非営利活動だったというのも大きいのかもしれません。このような形の実践と普遍的な知を結びつけるのが私のミッションであるような気がしてきました。これを受けてまた次のステージに進みたいと思います。

『状況に埋め込まれた学習』

ずいぶん時間が空いてしまいました。忙しかったのもありますが、ブログを書くことの位置づけを考えて色々迷っていたということろもあります。そのことについてはまた、少し書くかもしれません。

学習を捉え直す

さて、前回は文化的、伝統的なものというのは、変化がなくそこにあるものではなく、変化の中で、関係性が構築されていくという所にポイントがあるという話を、環境社会学者の鬼頭秀一さんの本に触れて紹介しました。

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今回取り上げ る本はそれに関連して、教育の観点から、自己と外部の関係性について論じているレイヴ&ウェンガー『状況に埋め込まれた学習』を取り上げたいと思います。この本はちょっと要約が難しいので、気になったポイントを私なりの言葉でお伝えしたいと思います。

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この本では学習を認知的な観点から捉え直しています。認知という言葉をあまり安易に使うのは良くないかもしれませんが、ここでは個人がどのように社会を認識するかという観点を示していると考えて頂ければよいと思います。簡単に言うとレイヴ&ウェンガーは、学習は共同体に参加する過程で起こる相互作用=創発が重要であると考えます。一番イメージしやすいのは徒弟制でしょうか。本書にはいくつかの徒弟制の例が挙げられています。(徒弟制というと私は大工仕事を思い浮かびます。これに関する素晴らしい本として『棟梁―技を伝え、人を育てる』という本があります。お勧めです。)レイヴ&ウェンガーは徒弟制からさらに議論を進めて、正統的周辺参加という概念を設定し、教える−教えられる関係性を実践共同体という見方に置き換えます。

周辺的参加と実践共同体

この本の特徴は学習を、個人的なものから、集団的なものに捉え直しつつ、アイデンティティと参加という個人的な領域を重視しているところにあります。学ぶものがはっきり存在しているわけでなく、はっきりしないが故に、共同体に組み込まれ、関係性を作っていく中で学んでいくということを理論化したいという著者の動機が感じられます。そのことを強く表しているのが「正統的周参加」という中心概念です。それを知るために、本書の第一章冒頭部分を引用します。

正統的周辺参加」は、新参者と古参者の関係、活動、アイデンティティ、人工物(artifacts)、さらに知識と実践の共同体などについての一つの語り口を提供するものである。これは新参者が実践共同体の一部に加わっていくプロセスに関係した話である。一人の人の学習意図が受け入れられ、社会文化的な自薦の十全的参加者になるプロセスを通して学習の意味が形成される。

色々難しい所はありますが、「周辺」という言葉に着目すると、わかりやすいかもしれません。ここでいう「周辺」は「中心」に対する「周辺」です。学校教育などで教えることが予め決まっていて、そこに参加するようなことが「中心」参加するということでしょう。これに対して、「周辺」というのは「中心」を持たない、関係性の中で自分の重要なことを知っていくというような学習になります。これとセットになるのが実践的共同体という概念です。この本の「実践」は社会学的な背景を持つ概念ですが、そこはとりあえず置いときます。簡単に言うと、社会の一員として行動する場合には、切り離された知識を学ぶのではなく、その共同体の中で繰り返し、確認される作法のようなものとして身に付ける必要があるという意味が含まれます。学習を含め、様々なものが個人主義的になる中で、協働が重要になるとも言われています。その中ではこのような理論化は以外と効いてくるのではないかというのが、この本を読んで私が伝えたいことです。

次回に続きます。

『自然保護を問いなおす』 鬼頭秀一 つながりと環境

さて、前回は環境倫理学者、鬼頭秀一さんの論文を紹介し、環境運動のダイナミズムについて示しました。環境運動は人間同士、あるいは人間と環境の相互作用のなかで動きながら進んでいくというイメージが得られたかと思います。今回は同じく鬼頭さんの本から西洋的普遍主義から、少しやわらかな関係主義という流れで書いてみたいと思います。

二分法からの脱却

 自然保護は、人間と自然の二項対立で、人間中心主義からの脱却というテーマで様々に議論がなされてきました。アメリカを中心とした欧米の環境思想でどのような議論がなされてきたのかについては鬼頭さんの『自然保護を問いなおす』にコンパクトにまとめられています。その部分だけとっても名著といえる内容だと思います。まとめると、自然保護の思想は、人間中心主義から人間非中心主義という転換となるかと思います。しかし、西洋の自然の価値の捉え方は、原生自然に普遍的な価値があるという、ある意味では精神主義的な部分が含まれおり、人間と自然の関わり方によらず、手付かずの自然に普遍的な意味があるという形になります。

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 西洋はどこまでいっても二元論的な「分ける思想」から離れられません。それ自体が必ずしも悪いとは言えないと思いますが、もっと全体をざっくりと見るということがあっても良いように思います。東洋的ということは安易に使うのはためらわれますが、主観と客観が曖昧で、私が言っているのか、それまでの社会的蓄積が自分に言わせているのかという感覚があり、環境と向かい合うときはこのような感覚が大事になるようにも思えてきます。

社会的リンク論

 鬼頭さんの視点は色々広がりがありますが、ここでは、鬼頭さんが着目した社会的リンクという言葉について触れてみます。先ほど触れた"西洋的な二元論から脱却できるかもしれない東洋的曖昧さ"は私の表現ですが、鬼頭さんはそれを「かかわりの全体性」という様に表現されています。これは自然と人間の関係がお互いに働きかける様な全体性を持っているという見方だと思います。ではその関係性、自然と人間を結んでいるもの、あるいは失っていて取り戻すべきものはなにかというと、社会的・経済的リンク、文化的・宗教的リンクのネットワークの総体であると言っています。倫理という面から行くと、守らなければいけないものが普遍的に決まっているのではなくて、我々の生活において、社会的、経済的、文化的に自然が特別な意味を持つがゆえに、当然それを守るというようなかかわりを作っていく。そういう倫理もあるだろうということでしょう。  鬼頭さんの言葉に「遊び仕事」というものがあります。なくなっても困らないけれど続いている習慣のようなもので、山菜採りやちょっとした漁などが挙げられています。このようなものは遊戯的な側面が強いらしいですが、確実に伝承され、生活の中で自然と触れることで、「その場所でその遊びをした自分」というのは否定できない自分自身になるといってもいいかもしれません。まさに主客未分離な感じですね。

関係性と実践的コミュニティ

 『自然保護を問いなおす』では文化あるいは伝統というのは決して静的なものではないという視点に立っています。伝統は土地土地の風土の中で変化を受け入れ続けることで獲得してきた関係性であり、であるがゆえに人々の感受性まで入り込み、伝統的な振る舞いを行うことによって、アイデンティティを獲得する。

 ジーン・レイブ、エティエンヌ・ウェンガーは『状況に埋め込まれた学習』の中で実践共同体という言葉を使っています。社会的リンクという観点で考えると、文化や風土、伝統は認知的なものと考えられますが、レイブ、ウェンガーはそれを実践と結びつけます。その実践は学習過程であり、アイデンティティ形成過程であり、社会的実践、伝統の創造であると言えるように思います。

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次回はこの『状況に埋め込まれた学習』を私なりに掘り下げてみたいと思います。

つながりとよそ者 鬼頭秀一

さて、前回の話に少し関連させつつ、環境について考えたいと思います。 自然保護において、普遍的な視座が持つ意味という話題です。

鬼頭秀一さん

今回取り上げるのは、鬼頭秀一さんという環境倫理学者の方です。 鬼頭さんはもともと薬学系の勉強をされてたのですが、公害問題への出会いから、 科学哲学の方向に進まれて、科学と社会の関係を考え直し、環境倫理という領域で、 研究活動をされてきました。 私もエンジニアとして、技術と社会の関係はそれなりに複雑であるのに、 そのことについて企業の技術者は特に深く考える必要性を感じてないことに違和感を覚えていました。 そういう意味で、鬼頭さんの問題提起と概念整理は多くの技術者に触れてほしいものだと感じています。

よそ者論の射程 普遍的な意味付けという役割

 鬼頭さんの考えを知るのに調度良く、Webで見れる論文があります。

ci.nii.ac.jp

鬼頭さんのキーワードの一つである「よそ者」の役割についてこの論文では以下のように述べられています。

「よそ者」は 地域に埋没した生活では得られにくいより広い普遍的な視野を環境運動に提供 し、ごく当たり前だから気づかされない 自分たちの自然とのかかわりを再認識する などの新たな視点を外から導入する役割がある。

この論文で取り上げられているのは、諫早湾奄美大島の自然保護問題という具体的なものですが、ポイントとしては利害、利益関係を超えて、人をつなげる重要な役割をもつ、普遍的な視点とそれを供給できる「よそ者」の立場です。

共同体、コミュニティという言葉はそれだけでいいものとして語られることも多いですが、多くの場合、利害関係だけでつながっており、長期的な価値より、短期的な利益を優先して、二項対立図式を作って、反対勢力を攻撃するという図式にもなりやすい。難しいのは例えば諫早湾のように、公共事業を受け入れて、生活を守りたい住民と、環境を守りたい自然保護側の対立が明確に線が引ける形にはなってないということです。これは沖縄の基地問題でも同じでしょう。経済的なことを考えると受け入れざるを得ないと考えてきたけれども、状況に応じて変わっていかないといけない。しかし、利害関係がそこにあると変化は難しいのかもしれません。公共事業による負の側面はメンタリティを含めた構造的な問題なのだと思います。

この論文では一人の「よそ者」の存在によって生じる、変化のダイナミズムを捉えています。運動において重要になるのは、地域の住民に「共感」し、彼らの思いを整合的に理解、普遍的な意味付けであることを示しています。

このように自然保護と人のつながりとそれによって生じる変化のダイナミズムは密接に関係しています。それは日本だけでなく、多くの地域で、人間は環境と相互に作用しながら暮らしてきたのであり、その相互性を意識する視点が、これからの環境問題と向き合う上で重要になるのではないかと思います。

次回に続きます。